星乃トラコは眠りたい。

小説を書いて一発当てて犬を飼って寝て暮らす。それがわたしの最終目標。

あかん

調べてみたら、体重が、3kgぐらい落ちている。

 

先々月の連休で久々に実家に帰り、イヌと戯れ、おいしいものを食べ、やりたい放題やってみたら体重が55kgを超えた。ちなみに身長は150cm前半台で下腹がやばく、ぽっちゃりを通り越して妊婦に見える。見知らぬ人に妊婦と間違われたこともある。

体重計に乗ったとき、あちゃー。と思った。痩せなきゃなー。と思った。それは覚えている。

その連休の翌日、久々に買い物でも、と仕事帰りに某所某店に行き、お高いお値段がセールでほんのちょっぴり下がっていた素敵なワンピールを発見、試着。

したら、まーハラはきついわ脇肉がはみ出るわ背中がパツパツすぎてファスナーを上げるのに一苦労(どころか二苦労も三苦労もしたかも)というありさまで、見苦しいことこの上ない。

しかしあまりにも素敵なワンピースだったので、「これから痩せて着る」という「将来への投資」めかした無駄遣いをぶっこき、自己満足にホクホクしながら帰宅したのであった。

 

そのワンピースをこの前気まぐれに着てみたらすとんと着れた。

腹肉はやはり突き出て見えるが、脇肉は消えファスナーもすすっと上がった。

姿見に映った姿は、ハラが出ているのか元々こういうふんわりシルエットなのかギリギリ判別不可能といったていで、かたちとしてはまあまあきれいだった。

わお、やった。着れるじゃん。ラッキー。と一瞬だけ思ってしまったことを告白しておく。

まこと、女の業とは深いものである。

 

一瞬喜んだものの、おかしい、とすぐに思った。ハラはともかくあの脇肉が消えてファスナーが閉まるのは絶対におかしい。あんなにキツキツだったのに。まさか知らないうちにどこか破いたんじゃあるまいか。くっそふざけんな一体いくらしたと思ってるんだ。

そう思ってワンピースをくまなく調べた。しかしどこにも異常は見つからなかった。

首を傾げながらとにかくそのワンピースを着、出勤して着替えて仕事して着替えて帰宅した夕方、ふと思いついて体重計に乗ってみた。

そうしたら体重が3kgくらい落ちていた。

 

ああ、やはり錯覚ではなかったのだな、実在していたのだ、と思った。

袖なしワンピースからハミた脇肉の話である。あと上げるのに四苦八苦したファスナーの窮屈さ。

そして恐怖で一気に血の気が引いた。何故なら私はこの日に至るまでに痩せるための運動等を一切やっていない。そして私の肉体から3kgものゼイ肉を落っことすには、過去の経験から言って「何もやっていない」などあり得ない。事実ハラは引っ込んでいない。つまりこれは余分な肉が落ちたのではない、落としてはいけない何かが落ちたという痩せ方だったということだ。

 どこから何が落ちたのか。それが問題だ。つーか怖すぎる。

イヌの記事を書いたのは良くなかったかもしれない。

写真見たさに自分で何度もアクセスしてしまう。

同じ写真が自分のスマホに入っていて好きなだけ見られるにも関わらず、である。

引き伸ばしプリントにでも出して部屋に飾っておくべきかしらん。

でもそんなことしてホームシックならぬイヌシックにかかっても困るし。

「プロフェッショナリズムと資本主義の精神」

っていうなにかのギャグみたいなフレーズが浮かんだけど元ネタがどうしても思い出せなくてマックス・ヴェーバーまで出てきたのに思い出せなくてかれこれ三日くらいずっとモヤモヤしていてさっきついに検索してしまった。

この敗北感を忘れないために記録しておく。

ついでに小説のネタを一つメモ。

『ツァウバー・ガルテン』。

 

wikipediaの受け売りだが、『ツァウバー・ガルテン』という言葉が元ネタ原典に登場する。儀式と秘儀と恩寵の息づく庭。近代資本主義の発達に際して、人は時計を携えてそこから出て行った。

ところで非プロテスタント圏である日本においては、原典が唱えるようなキリスト教の一宗派の倫理を前提とした理屈は当てはまらない。ではこの国で資本主義はどのように発達したのか?

 これもwikipediaの受け売りだが、近代資本主義の発達といったら明治維新以降ということになるらしい。富国強兵文明開化あたりは流石に習った記憶はあるが、曖昧すぎて思想的・価値観の推移的にどういうメカニズムで発達してったのかいまいち掴めない。ぶっちゃけ思想もナスのヘタもなく、欧米に追いつけ追い越せでがむしゃらこいてきたみたいな印象しかない。

 あとなんか適当に検索したらやっぱヴェーバーが指摘した勤勉とか倹約バンザイ的な倫理感に通ずる価値観が日本においても儒教ルーツでそのころ勃興してたんじゃないかみたいな論文だか抄録だかが引っかかった。けどそういうのが書きたいわけじゃないんで目だけ通して割愛。

 

 話を少し飛ばしてプロフェッショナリズム。

 ヴェーバーに従えば『ベルーフ(召命)』。この地上で実行すべく神から人に課せられた、「神の御心にかなう行為」。に、プロフェッショナリズムは通ずると言える。

 可能な限り質の高い商品を、可能な限り安く消費者に提供する。そのことで共同体の構成員皆を益するということになり、それは神の御心にかなう。ゆえに結果として金持ちになるのは全然オッケーである。というのがヴェーバーが指摘した理屈だった。

 プロフェッショナリズムとは何か。

 「可能な限り質の高い商品を、可能な限り安く消費者に提供」せんとする意志?

 単に質を追い求める姿勢だけをなんとか切り離せないものか。

 「安く」という概念が曲者だ。

 「安く」モノを人に提供するために、コストとベネフィットを意識して生産を管理する必要性が出てくる。時計はコスト管理のためのツールだ。つまり、労働時間を管理して生産性を上げるための。効率を考えるための。

 『ツァウバー・ガルテン』。魔法の庭

 庭が魔法に満ちていたころ、そこには同時に非合理への畏敬も満ちていた。

 人は時計を携えて、非合理の庭を出て行き、働き始める。

 

 非合理の庭には何がいるのか?

 人は出て行った。

 けものがいるだろうか。イヌとか。イヌがいたらいい。イヌはかわいい。

 非合理の庭にベルーフはあるか?

 当然、ある。と考えたい。召命とは手っ取り早くいうと「神から課された使命としての天職」である。なんやそれは。非合理そのものやんけ。

 問い:なぜ、それを、わたしがやらねばならないのか?

 答え:やらなければならないから。それをやるのがあなただから。神様がそう決めたから。

 というのが召命ということだ。ムチャクチャである。

 そのムチャクチャを、しかしするりと飲み込んで、非合理の庭で業に励む。

 という人間像を書いてみたい。

 召命として効率はイヌの餌にし単にひたすら質だけを追い求めまくる人間というのを書いてみたい。

 もちろんそんな人間を庭の外から見つめるものもいる。魔法の庭から出て行った、時計を持つ人間。時計で出来上がった街で召命のためでなく生存のために働いていてすりきれてきた人間。

 対比しやすいようにきょうだいにでもすんべか。庭を出た姉と庭で…そうだな、ノミでも振るう弟、とか。弟でなく姉が庭を出るのは舞台が2010年代ぐらいだから。日本において男女の区別なく若いモンはみんな正規職に就こうとし、しかし就けずに生存のために職を選ぶ余裕もなくすりきれている時代だから。

 問題は、弟が庭にいるのはなぜか? 姉がヘロヘロな時代に弟はどのように庭で口を糊しているのか?

 今のところの案としては、庭から出ると死ぬ可能性が高い=時間管理、効率追求重視の社会で「ふつうにはたらく」ことができない人間として弟を描写することでいちおう解決はする。ただし「ふつうにはたらく」ができない人間は良くも悪くも己を切り崩して売っぱらっていくしかないので状況的には己の足をかじるタコ化してる可能性もある。そうなると姉が庭の弟を気にする理由が「自分で自分のケツ持ちもできないダメなタコ人間だけど見捨てられない、だって家族だもの」パターンしかなくてつまらん。

 もっと、なにか、ないか。

 魔法の庭

 恩寵の庭。

 恩寵は街にはない。姉は庭に恩寵を見出すか見たと錯覚できねばならない。

 

眠れない。目覚まし薬を2粒に増やしたのが祟ったか。

昼寝はなしでも良くなったけど気が散りやすくなってるし何より食欲が落ちている。

犬のこと

前回からずいぶん間が空いてしまった。

おまけに「眠気を払うのに有効な、たったひとつの冴えたやり方」を書くことにして筆を置いたが、ふとそれが小説のネタになり得ることに気づいてしまった。

というわけで大変に不誠実ではあるが、その話はなかったことにしていただきたい。

いずれどっかのコンクールにでも落っこちたら、供養のつもりで原稿を載せることもあるであろう。それまでお蔵入りである。

代わりと言ってはなんだが、とってもかわいい犬の写真を載せておくので文章はさておいてご堪能いただきたい(…と、言いたいところではあるが、多くは載せないし選りすぐりのブサかわ写真集にもしている。身バレは困るしこいつのかわいさに犬さらいが出現しても怖いし、何より私は写真の腕が悪くてこの愛くるしさを画像で十分に伝えることは望むべくもないことなのである)。

 

 

実家で犬を飼っている。堂々たる体躯のゴールデンレトリバーである。

どれくらい堂々かというと、体重にして40キログラムを超える。

Wikipediaを見るとゴールデンレトリバーはオスで体重29〜36キロほどと書いてあるので、いかに骨太かご想像いただけるかと思う。

よく「このでかいやつ」と呼ばれ(私に)、小突かれてはかわいがられている(私に)。

これだけでかくありながら、何をやってもかわいらしいという驚異の生命体である。

身バレが怖いのでほんのちょっとだけ載せておく。

かわいいだろう、ふふふ。

 

 

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やつのかわいいエピソードには事欠かない。羅列するが読まなくてよろしい。

初めておすわりさせようと思ったときただ「オスワリ」と言っただけで誰もオスワリのなんたるかを教えていなかったというのにサッと尻をつけて座り、「これが血統というものか!」と人を驚愕させたとか、かと思えば初めて水遊びさせたときに水に飛び込む犬種のくせに怖がって入りたがらず、入ったら入ったでヒトにしがみついて服を破いてくれたとか、小さいころは人間の髪を引っ張ろうとするじゃれ遊びが大好きだったが寝そべって本を読んでいる当時長髪だった私に背後から飛びついて髪飾りを引きむしり大目玉を食ったとか、まだ外で遊びたいのに遊び相手の人間(私)が先に屋内に入ってしまおうとするのがイヤで隙をついて靴を片方くわえて逃げ、片足VS四本足という逆ハンデ状態で鬼ごっこを展開、当然捕まるわけもなく大いに楽しんだとか、一時期屋内でヒトの靴下を脱がせて持ち去る遊びがブームだったとか、ねこ大好きでネコなら何でもいいとばかりに近所のネコと遊びたがるがネコの方はやつを大好きでない(むしろお付き合いをご遠慮願いたがっている)ので常に振られっぱなしだとか、綱引きやボール遊びはしてくれるしお誘いもかかるのだが何故かプロレスはやってくれないとか、寝顔が子犬のころの写真のまんまだとか、

どこのイヌにもあるだろうがもちろんうちのイヌが一番かわいいという話が佃煮にできるほどある。

どうだかわいいだろう、ふふふ。

いや、もちろん伝わるまい。このかわいさは実物を目にして膝の上にのしかかられ、巨体でぺったりくっつかれ、喉のツヤッツヤの貴族の巻き毛のような飾り毛を存分に撫で、ついでにブンブン振られる尻尾でビンタを食らったり耳の後ろを掻いてやってぴらぴらの耳がぱたぱたぱたーとなるのを実地で見なければ決して伝わらないのだ。

かわいいだろう、ふふふふふ。

 

こんなにかわいいイヌではあるが、実は私にはやつに関して、墓場まで持って行こうと決めている秘密がある。

もちろん墓場まで持って行こうと決めているだけあってここには詳細は書けない。

こっそりチョコレートやタマネギを食わせたとか、ひどい怪我をさせたとか、そういったイヌの生命に関わる類の秘密ではない。

ただ、これがやつにバレるとやつはおそらく大変にがっかりして悲しむことだろうと思うし、やつにがっかりされるくらいなら怒り狂われてひとおもいに喉頸食いちぎられた方がマシであろうから、私はこの秘密を墓場まで持って行くことに決めている。

墓場でゆっくり眠り病に付き合いながら、話に聞く虹の橋のたもとに招かれた折になど、ひょっとしてやつの機嫌が良さそうだったら、漏らしても…

いやダメだ。舌を抜くと脅されようとしゃべるわけにはいかない。

そういう秘密がひとつだけあるのである。

 

もちろん、やつはその秘密を知っていてもおかしくはない。

ただし、100%忘れているだろうとしか思えないのである。

時期も時期で、まだ子犬のころだ。やつの全身が今のやつの頭くらいの大きさしかなかったよちよちの時代の話である。

もしも覚えていて理解していたらやつが私に対してあんなに親しげに振る舞うことなどありえない。少なくとも私なら事あるごとに「今はこうしてかわいがってくれるが、あのときこの人はこう言った、こう振舞った、あれがこの人の本心かも知れぬ」と思い返して距離を取る。それくらいされても仕方がないことを私はあのころ初対面のやつにしたのである。

そう、初対面だからこその過ちでもあった。

だが言い訳はしない。私はやつに対してうっかり大変に失礼なセリフを吐き、やつはそんなことなどまるでなかったかのように(というかたぶんやつの中ではそんなことはなかったことになっているのだろうが)、今も私を慕い続けてくれている。

何を言ったかだけは神と私とやつの脳細胞のどこか片隅が知るのみである。

 

ここまで書いてきてふと思ったが、まさか読者諸兄に(諸兄と言うほど来訪者もないだろうが)イヌにヒトの言葉がわかるはずがない、などという前時代的な迷信を信じておられる方はあるまい。

やつらはヒトの言葉を解している。とはいえ言語として日本語を理解しているのではない。音声の記号的理解は主に命令や一部の名詞(オヤツとかサンポとかイモとかボールとか)に限られると考えられている。やつらはそれ以上に、音声に込められた感情やニュアンスを汲み取るのである。

でなければ連中をしつけることなどできるはずがない。「何をしたらヒトが喜ぶか/怒るか」は、イヌの側にヒトの喜びや怒りを音声と態度から感知する能力がなければ培われるはずのない判断である。しつけとはその判断力を利用するものであるから、そもそもイヌがヒトの感情の機微に疎ければ成立しえないのである。

そして当然ながら、ヒトの感情の機微は態度及びその言葉、口から出した音声にもこもる。連中は自分が軽んじられていることや自分の存在をヒトが喜んでいないということを、音声からも嗅ぎつけることができるのである。

「馬鹿」という言葉を辞書的に理解することはできなくても、馬鹿にされていることはわかるのである。

 

さあそんな連中の眷属に対し、子犬の頃とはいえ、自分でもやられたら一線を引くような失言をこいてしまった。

報復が怖いというよりも、親友を裏切っているような居心地の悪さで、後悔すること山の如しである。

やつが無邪気な喜びをあらわにしてじゃれればじゃれるほど、ふとした折に自分が発した言葉の無神経さが悔やまれてならない。

ああわたしはどうしてこんなに忠実なかわいいイヌをつかまえて。

あのとき子犬のこいつを見るや否や、あんなことを言ってしまったのだろう。

 

 

 

いや書かないけど。書きませんけど、「あんなこと」の内容は。

許してくれてても、くれてなくてもいいけど、というかそれは私がその良し悪しを云々するようなことではないので措くけれども。

やつに嫌われてなければいいなあ、と切に思うのである。

同時に、忘却以外に、やつにあのような親密さと歓喜に溢れた態度を取らせるものがあるとしたら、それはどんな度量の深さ、愛の大きさなのであろう。

自分の何がそんなとてつもないものに値したと認められたのであろう、と、考えずにはいられない。