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星乃トラコは眠りたい。

小説を書いて一発当てて犬を飼って寝て暮らす。それがわたしの最終目標。

えなにこれ

体調不良とか仕事ガーとかで目離してたらなんかすごいPVとかきてた。星も来てた。

ありがとうございます。今見ました。

 

感動ポルノの定義について、ちょっと書き漏らしを見つけたのでこの記事を追記といたします。

 

「感動ポルノ」と「物語の質」アゲイン

以前こう書きました。

 

しかし物語に没入させ感情移入させ、おまけに読み終えたとき、はぁ〜っとため息をつかせ、「自分、恵まれとる。もっとがんばろ」とか「世の中にゃあ大変なヒトもいる」と思わせる作品というのは存在する。

私が知ってるのは障害者ではなく闘病もので、最後にはみんな死んでまうという筋書きのフィクションだ。ちなみにネズミが超頭良くなるやつではない。あと病気そのものは実在で、今も病院には患者がいる。作者は取材して書いたということだ。

これは「感動ポルノ」だろうか?

(中略)

しかしこの本を紹介している人で「これは感動ポルノとは違う」と書いていた人がおり、作者自身も感動ポルノという用語こそ使っていないが「脱感動ポルノを目指した」と読めるような内容をあとがきだったかインタビューだったかで語っている。

これは「感動ポルノ」だろうか??

違うとしたら、それはなぜだろうか?

 

結論からいくと少なくともこの作品は感動ポルノじゃなさげです。

興味のある人は『さよならを待つふたりのために』で検索しておくんなまし。映画化されたらしいけどそっちは観てない。

そんで、何で感動ポルノじゃなさげかっていうと、病人だから感動したわけじゃない。と考えることが可能だからです。

さっきから「なさげ」とか「可能」とか言ってるのは、病人だから感動したわけじゃないけど病人の物語であるためです。

ネタバレを避けるためにちょう曖昧な表現で参りますが、この物語の一番最後のフレーズの生んだ感動、わたくしとしては作中なんども心臓をキュウキュウ言わされたわけでありますが中でもあの最後のフレーズのもたらした、あのしんとした感動。あれをぜひ「この物語のもたらした感動」の代表として選出したいと思っております。

何というかね、生活の雑音とかそういうのが一掃された感じの、静かな、でもなんかこう、みっしりした感じの存在感というか、そういうのがずっしり来るような、そういう感動。として感じたわけでございます。居るかわからない当記事読者諸兄の皆様におかれましては「なんのこっちゃ」って感じと思われますが、スルーするか作品を読むかしてくださいますようお願いいたします。

それで話を元に戻しますが、この感動は主人公が病人であること自体からくるものではないのであります。たとえ主人公が健康な人間であったとしても、ああいう状況でああいう選択をしてああいうレスポンスを受け取ったら、そしてあの一言をもらしたとしたら、たぶん私は同じように感動します。何というか、病人とかそういうんじゃなくて、人間(思考したり感じたりする存在)がああいうことになってああいうことを言った、思った、ということが胸にせまるのです。

しかし、ここがややこしいのですが、この感動を生んだ「ああいう状況」「ああいう選択」「ああいうレスポンス」の全ては、主人公が病気であったために生じたものなのであります。そもそも主人公が病人じゃなかったらこの話は成立しない。病人じゃない主人公を据えるなら筋書き自体を丸ごと書き換えないと、それこそ感動ポルノにしかならない。みたいな物語なのでございます。

全く別のブログの記事で引用されているのを孫引きしますが

障害者の側からの、こんなメッセージがありました。

Don’t be inspired by us because we happen to be different. If you must be inspired, be inspired by our vision, our ideas. Don’t be inspired by our existence. It’s just my life, and I’m living it for me, not to warm your heart.

【拙訳】

私たちで感動しないで。たまたま違っているだけなのだから。感動なさるんなら、私たちのビジョンやアイデアに感動して。私たちの存在に感動しないで。それは単なる生活の一コマ。暮らしているのも自分のため。皆さんをほっこりさせようとしてやってるんじゃありませんから。

「感動ポルノ」の日英ネット初出を追った 

という、このコメントが表現している「感動なさるんなら、私たちのビジョンやアイデアに感動して」。このビジョンやアイデアに、決断とかそういうことを加えて捉えた場合に、そういうことに感動を生むものは「感動ポルノ」ではない、と言えそうだと考えます。

前述の物語はまさにそこんとこ、主人公ら登場人物が取った行動、言った台詞がこそわたくしの心臓をして頻脈を起こしかねないような衝撃を生じたわけですので、「感動ポルノ」ではなく、人の胸を打つ上質な物語である。と結論できそうに思います。

「結論できそうに思います」?

そうです思ってるだけです。論理としては穴があるのは自覚しております。

つまり、「主人公ら登場人物が取った行動、言った台詞」「ああいう状況」「ああいう選択」「ああいうレスポンス」、これら全てが「主人公が病人であるために生じたもの」であるのであれば、それは病人という属性に感動しているだけなんじゃないのか、結局全部「感動ポルノ」で、物語は「ポルノ」であることからは逃れられないんじゃないのか、という話になってくるわけです。

このへんをはっきりさせるためには、例えば主人公らと同じ病気で、しかし主人公らとは似ても似つかぬ健康人でもようやらん類の胸糞行為が連発みたいな別のお話を引っ張り出してきて検証すればよさげなのですが、正直そんな労力を費やしたくなく、またそっちはそっちで「こいつも病気だからこんなことになった」という別ベクトルの感動ポルノみたいな何かに化けそうな予感がするので保留とさせていただきます。

 

「毎朝起きて自分の名前を覚えている」ことの偉業性

あとは個人的な逆恨みというかなんというか。例によって読んでも誰も得しません。メモとして書いておく。

朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。

これはStella Young 氏のTEDスピーチ書き起こしの抜粋だが、ここでよりにもよってこの人が「程度の低い期待」と称してしまっていることが、なんかすごい矛盾というかブラックジョークみたいな感じになってるのがすごくモヤモヤする。

言うまでもなく朝起きて自分の名前が言えることが「当たり前」にカウントできない我が身を省みての発想であり、「いいよな朝起きられてある程度正気なのが保証されてると思える人間は」というアホな羨望である。あるいは「それって期待の程度がどうとかじゃなくて何かをいちいち喜ばれること自体のウザさなんじゃないの」という話のすり替えである。

こいつは個人的な課題として解消しなくてはならない。

ある程度関係する話だが、そもそも期待の「程度」の高低差が生じるところには興味がある。要するに「当たり前」の発生源ってどうなってるんかな、みたいなことだ。

「他人に対して自分の『当たり前』を強いる人間は頭がおかしい可能性がある」という命題に同意しつつも、自分自身に対しては自分なりの『当たり前』を保持する。みたいなことを自分も含め割とみんなやっている感があるが、なんやろなそれは、という話。

こういうのを突き詰めて煮詰めて鍋底焦がしたような小説を書いてみたい。