「感動ポルノ」と「物語の質」について
ひと月ぶりに記事を書くというのに、内容があまりこのブログのコンセプトに合わない(のでこれまでの文体が使えない…)のがちょっと心理的に抵抗があるが、まあしょうがない。他人の立てたテーマに乗っかったとはいえ、自分のノートを汚すのが嫌だからと言って他人のノートに書き続けるのはお行儀が悪い。
感動ポルノが物語の質を落とす理由 - はてこはときどき外に出る
タモさんネタ感動ポルノのいやらしさを解説 - はてこはときどき外に出る
上二記事を踏まえてこれ以降をお読みください。 長いよー!誰も得しないよー!!
ツッコミ
ブコメでも指摘されていますが、id:kutabirehatekoさん(以下「はてこさん」)は虚偽を用いることの恣意性(「でっち上げ行為」の恣意性)とYoung氏の指摘した「感動ポルノ」というものの恣意性とを混同しています。
- でっち上げてまで障害者を健常者より劣った人間に位置付けることはオカシイ
- 「障害者は健常者より劣っている」という前提で作品(のメッセージ)が作られていてオカシイ
これらのオカシさをごっちゃにした上で「タモリについて書いたネタは感動ポルノであり、感動ポルノは作品の質を落とす」と結論しています。
そのため
- 「でっち上げ」を含むこと
- 差別的な前提を必要としていること
- 作品として質が低いということ
- 「ポルノ」であること
これら4点の関連が見えてきません。
それゆえにいろいろと疑問が出てきたのでコメントで聞いてみたら、最終的に
あなた一人のために書いたわけではありませんが、あなたがここで疑問だと書いていることの答えは一連の記事の中で説明しています。
それをよくよく読んでわからないということであればこれ以上の説明をこのブログから見つけることはできないでしょう。
編集してある実話や創作=ポルノではありません。アンナ・カレーニナと人妻不倫ポルノの違いについて考えてみてください。
そして思いついたことはご自分のブログにどうぞ。
って言われちゃった☆
……正直言って、ご自身で「感動ポルノ」と「物語の質」とを絡めておいて、説明を求めたらこの返答ってちょっと不誠実です。"一連の記事の中で説明しています"とありますが、肝心の本文は何の説明にもなってない(「でっち上げ」の恣意性と感動ポルノの恣意性をごっちゃにしてることはわかったが)し、コメントに書いた疑問も一点も解消されてません。
なので「思いついたこと」、もといセルフ解消を試みます。
内容が結構ループしたり重複したりしてるけどまあ仕方なかんべ。思いつきやし。
自分のスタンス
感動ポルノ自体の問題より「物語の質」「作品の質」が気になって記事を読んだというタイプ。
感動ポルノというものがどう問題なのかはStella Young氏のスピーチの書き起こしから理解しましたが、それが物語とか作品というものの質にどう影響を及ぼすかという言及はYoung氏からは無かったはずです。
はてこさんをして「作品の質を落とす」と言わしめたモノの性質やロジックが知りたいわけです。なので、「感動ポルノってなんですか」って聞いてみるに至った。
「感動ポルノ」の定義を整理
Stella Young氏(女史って言うべきなのかこういう場合?)の
「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。
を出発点にします。
(感動ポルノの)目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。つまり、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるためのものです。「あんな大変な人もいるんだ」と。
障害者は感動ポルノとして健常者に消費される - ログミー
この「目的」が、「(健常者の)利益」としてカウントされており、このような「目的」「利益」の成立には、障害者を健常者より一段下に位置づける論理が必須で、それは障害者を「健常者と同じ人間」として扱わない不当なロジックだというのがYoung氏の主張です。
けれども、はてこさんは
肉体的なマイノリティの問題を書いたけど、職業も同じだよ。
としているので、Young氏の「障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしている」という定義では狭すぎます。「ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしている」の方を用いる必要があります。
以下では文字数的な利便性から「特定のグループに属する」を勝手に「属性Aを持つ」と書き換えます。
「感動ポルノ」の問題点及び「ポルノ」について
以上の定義から「感動ポルノの問題点とは人をモノ扱いすることだ」ということになりそうですが、実はYoung氏の定義の時点ではそうじゃありません。
Young氏の指摘する感動ポルノの問題点は「ある属性Aをもつ人(A人)について、ネガティブなベクトルで非A人と異なる(=非A人に劣る)と無条件かつ前提的に見なした上で、A人の主体性や人格を無視(=モノ扱い)する」ことです。
また、Young氏の定義及びはてこさんの記事においては「モノ」という表現に主体性・人格のなさを反映している(「モノ扱い」=「主体性及び人格の無視」という意味で用いている)(厳密に言えばYoung氏のは翻訳しか見てないから原文はどうかわからんけど)と思われ、その最たるものとしてポルノグラフィ略して「ポルノ」が比喩に挙がったと理解しています。以下、性的な、いわゆるポルノグラフィについては「感動ポルノ」にならって「性的ポルノ」と表記し、「ポルノ」はモノ扱いの比喩の方といたします。
えーと、要するに「人を記号化しモノ扱いすること」とは感動ポルノというよりは「ポルノ」一般の問題点であり、「感動ポルノ」はその上ポリティカルにインコレクトである(偏見を含み差別的である)という問題点も持っている、ということです。
Young氏が指摘した感動ポルノの問題点とは、偏見が「ポルノ」の方法論で料理され「感動」の衣をつけられて大勢に供され、みんながそれを美味しく味わっているということであって、手法が「ポルノ」であることがメインではないと言えると思います。
…と、半ば無理やり「ポルノ」と「感動ポルノ」の区別を試みましたが、何というかニワトリタマゴの感があるのは否めません。ポリティカルインコレクトネスというものは概して人格無視・主体性否定(=記号化・モノ化=ポルノ化)を経ずには成立し得ないからです。人格無視してない差別って無くね?
しかし目的は「感動ポルノ」と「物語の質」の関係を明らかにすることなので、とりあえずはこれで止めときます。
ポイントとして忘れてはいけないのは、「ポルノ」は人格無視・主体性否定であると同時に、それによってある人々に「利益」をもたらすものである、ということです。
で、
ここまでの整理を踏まえて「感動ポルノが物語の質を落とす」とはどういうことかを考えてみると、
- 偏見を含む・差別的であるので物語として質が低い
- 「ポルノ」であるので物語として質が低い
のどっちか(か両方)であろうという話になります。
しかしはてこさんの解説記事においては、
(前述のタモリについての文章の大半は)感動ポルノにありがちな憶測に基づくこじつけだからね。
(中略)
こういった根も葉もない憶測をもとに「本人は必死なのに傍から滑稽だと思われていた、かわいそう」というのが感動ポルノ。
とされており、「捏造ねじこんで同情こじつけるのが感動ポルノ」みたいな話になっちゃっております。
そのため、Young氏が引用した「ありがちな」感動ポルノの例(バスケットボールを抱えた車椅子の少年のポスターなど)が逆に「感動ポルノでない」ということになります。車椅子でバスケットボールをやる人がいるというのは憶測でもこじつけでも捏造でもなく単に事実だからです。
Young氏が主張しているのも「車椅子でバスケすること自体をことさら特別な偉業のように扱ってくれるな」ということであって、エピソードをでっち上げることの是非及び感動ポルノの定義においての扱いは何も言及されてません。況や「物語の質」との関係をや。
つまり感動ポルノと物語の質(の低下)との関係に言及したのははてこさんなのですが、先述した通り解説記事は解説になってないしコメントにはお返事来なかったので以下は私の思いつきとか感想とかです。
「感動ポルノ」と「物語の質」
「感動ポルノ」は物語の質を削ぐか?
Stella Young氏のいう「感動ポルノ」は削ぐだろう。
障害者に対する偏見や差別を無条件に前提とする物語、「自分が彼らより恵まれている」が故に健常者に感動をもたらす物語というのは、ポリティカルにアカンとか趣味がおよろしくないという以前に、物語としてちょいと欠陥があるように見受けられる。
つまり、いちいち読み手を「自分」に立ち返らせることで物語への没入や感情移入を妨げる。
読みづらっ。
何のために「物語」を読んでんだかわからんやんけ、そんなん。
しかし物語に没入させ感情移入させ、おまけに読み終えたとき、はぁ〜っとため息をつかせ、「自分、恵まれとる。もっとがんばろ」とか「世の中にゃあ大変なヒトもいる」と思わせる作品というのは存在する。
私が知ってるのは障害者ではなく闘病もので、最後にはみんな死んでまうという筋書きのフィクションだ。ちなみにネズミが超頭良くなるやつではない。あと病気そのものは実在で、今も病院には患者がいる。作者は取材して書いたということだ。
これは「感動ポルノ」だろうか?
条件は満たしているように思える。その病気では作中の描写を見る限り、病人はウルトラ苦しんで死んでいく。登場人物(病人)の日常の一コマとかを普通に書いているのだが、日常の一コマレベルでカジュアルに心肺停止に至ったりするので読んでいる間気が気でなく、読み終えたところで非病人であるところの自分は「私この病気でなくて良かった…」と心底思ったし、今後この病気にかかったときのために覚悟(なんの?w)はしとこうと思った。読んでて登場人物たちが苦しむのを心底かわいそうだと思ったし、病気自体は実在ってことはこれくらい苦しんでる人が今もおるってことやんけ、なんでこんな病気あるんじゃボケ、と誰にともなく憤りたくなった。
しかしこの本を紹介している人で「これは感動ポルノとは違う」と書いていた人がおり、作者自身も感動ポルノという用語こそ使っていないが「脱感動ポルノを目指した」と読めるような内容をあとがきだったかインタビューだったかで語っている。
これは「感動ポルノ」だろうか??
違うとしたら、それはなぜだろうか?
「ポルノ」であることは物語の質を削ぐだろうか?
人を記号化したもの、物語における役割のかたまりとしたもの、人格の設定の浅い登場人物をおくことで、物語の質は落ちるだろうか?
逆に、いわゆる「人間が描けている」作品は、すべて質が高いと言えるか?
性的ポルノとは人間の性欲に関するツボを突くように作ってある作品だ。そのために性欲の対象とされる者の主体性や人格は無視されている。そのことで削がれている「物語の質」とは何か?
感動ポルノとは人間の優越感に関するツボを突くように作ってある作品だ。そのために劣等と認識される者の主体や人格は無視されている。そのことで削がれている「物語の質」とは何か?
そして人間が描けている作品が、読者の人間自体についての認識に関する何らかのツボを突くように作られており、描かれている人間の主体性や人格が無視されているわけではないとする根拠とは。
例えば「描かれている人間」が、人名(固有名詞)でしか表現できないような人物であれば、それは主体性や人格を無視していないということになるか?
属性をかき集めて合成しただけでは作れないような人間が描かれていれば、リアリティがあるので「ポルノ」ではないということになるか?
非実在人物の「主体性や人格を無視」とは、具体的にはどういうことなのか?
そしてそのことで「利益」を受けるものは誰か?
結局残った疑問
- やっぱり「感動ポルノ」と「物語の質」についての関係性がわかりませんでした
Young氏の定義のはまだいいんだけど、肝心のはてこさんがどういう意味で「物語として質が悪い」言うてんかようわからん。というか、正直この二つって実は関係あらへんのやないかと思うの……。
- はてこさんの
編集してある実話や創作=ポルノではありません。アンナ・カレーニナと人妻不倫ポルノの違いについて考えてみてください。
というコメントが本気で意味がわからなくてのけぞってる
人妻不倫ポルノが「性的ポルノ」なのはいいとして、『アンナ・カレーニナ』ってそんなに完璧にあらゆる「ポルノ性」を免れてるかなあ?
21時を過ぎている。もう電池が切れる。