星乃トラコは眠りたい。

小説を書いて一発当てて犬を飼って寝て暮らす。それがわたしの最終目標。

siaとLady GaGa

えー、大変にご無沙汰しています、トラコでございます。

ポケモン20周年で思い出などのんびり綴っておりましたら、あれよあれよと言う間にポケGOだサンムーンだアローラのすがただとすごいことになって参りました。もちろんトラコも配信日からアカウント作って以来マジで毎日GOしております。東京23区におりながらそれでやっとレベル25というあたり、ヘボトレーナーっぷりが20年の時を超え再現されて鬱。ジム戦勝てなくはないんですが居座れない。CPが1000台後半以上にならないんですがジム制覇してる人々はどうやって3000超えとかゲットしてるんでしょうか。育成か?普通に育ててるのか?砂浜が星の砂で出来ているという某島とかの出身ではないか??

さてそんな折ですが敢えてポケモンじゃない話を書く。

それは最近ハマってる歌手の話であります。

 

The Greatest (feat. Kendrick Lamar)

The Greatest (feat. Kendrick Lamar)

  • シーア
  • ポップ
  • ¥250

 

siaという人です。

ジャケの人は本人でなく、PVが有名なバレリーナ兼ダンサー。sia絡みでは過去作「Chandelier」のPVで有名になった方で、今たぶん14歳?もう15?

siaはこのヘアスタイルがアイコンみたいな感じで(インタビューかなんかで顔出ししないって話と絡めて「(このヘアスタイルの)カツラをかぶれば誰でも、何でもsiaになる。その辺の猫でも」みたいなことを言ってたはず)、PVにはだいたいこういうキャラ(色違い含む)が出る。個人的にCheap thrillsのあのオッサンが好きすぎる。カッコ良すぎだろうなんだあのサタデーナイトフィーバーのキメっぷりは。

それはともかくこのシルエット。

誰かに似ている。トラコは思いました。

 

 

Telephone (feat. Beyoncé)

Telephone (feat. Beyoncé)

 

誰かっていうかこの写真が一瞬で思い浮かぶ。

そう我らがレディガガ、何故か日本では様付けで呼ばれているアーティストです。新作のJOANNAからテイストが変わってビビった。トラコはどっちかというとJudasくらいまで期派です。未だにPaparazziめっちゃ聴いてる。

共通点がそんなシルエットしかないんですが、sia実に良いです。実に良いんです。

どう良いかって結構GaGa的なベクトルに良いんですが、実はGaGaよりも撤退してるというのが個人的にはとても面白くて琴線に触れます。

 

 

順を追って説明します。

スタンスの話です。

GaGaの音楽は人を楽しませるのと同じような扱い方で人を勇気づけるとか闘いを応援する的なことをテーマとして持ってます。Judasあたりだと顕著というかストレートにそんな感じですが、思いつくだけでもそれより前のAlejandroからでもそうですし、単に自分がマイノリティ側だと表明するというだけだったらTelephoneのPVが既にそうだと言えましょう。

そして歌におけるGaGaの姿勢は、「大丈夫、あなたは一人じゃない」的なものです。GaGaと「あなた」(基本的に聞き手だけどheとかsheとかの出現の仕方もする感)とが歌の中の世界観にいて、「あなた」をエンハンスする。寄り添うソングなのですね。

そしてsiaですが、基本顔出しNGでやってるお方でしてこの人も「力づける歌」で人気という印象です。前提として普通に曲が良いのですが、この「力づけ」方がGaGaと明白に違って面白い。

どう違うかというと、siaは基本的に自分で自分に言い聞かせてるんですね。

享楽に溺れる過去作から徐々に「わたしはまだ大丈夫」「わたしはちゃんと生き延びた」ときて、そして冒頭で紹介したThe Greatestにてはっきりと「わたしには偉大でいる権利がある、その価値がある」と結実してきているわけで、これがトラコ的にはたまらないのです。

偉大でいる権利がある(I'm free to be the Greatest)、というのはトラコの意訳ですが歌詞中のフレーズで、この「偉大」というのが、例えばノーベル賞を取るとかそういう偉業を成したことに限ってはなく、「私は(私なりに)精一杯全力でちゃんとやってる」ということを指しているというのが、たまらない。

わかりやすい偉業に彩られているわけじゃない、という意味で「普通」である自分の人生を、精一杯全力で、生きる。

という風に書くとなんか薄っぺらいのですが、歌詞(とsiaの経歴や過去作)を見ていただくとわかると思うんですがもちろんこれは単なる綺麗事でなくちゃんと含むところがあって、「お前には出来っこない(事実あのときできなかったじゃないか、今これができてないじゃないか)」「無駄だ」「邪魔だ」「そんなことをやろうなんて馬鹿だ、迷惑だ」という有形無形の圧力が前提されているのであります。

その抑圧に刃向かうこと、何かをやり遂げようとすること、生き遂げようとすることを「諦めないで(Don't give up)」と繰り返し歌いかけるのです。

自分で、自分に。

一般に自分で自分を賞賛することは自画自賛とされてカッコ悪い的に扱われがちですが、しかし自画自賛には他人からの賛辞には決して持ち得ないリアリティがひとつある。

それは、人間関係から世界の万人を締め出したとしても唯一残る証人としての目撃証言の重みであり、本当に本当の意味で「大丈夫」と「あなた」に言い得る「最後のひとり」のリアリティであります。

それは同時に「あなた」を全面的に認め寄り添い、赦しさえすることができる唯一の存在でもあるわけです。

そのひとりからのエールソング。としてThe Greatestは聞くことができる。

どうですか、このものすごい閉じこもりっぷり。

良し悪しの問題でなく、Lady GaGaにはこれはちょっとできない芸当です。GaGaの歌はこれよりはもう少しフレームアウトしていて、「(社会の中に居場所がないと感じている「あなた」に宛てて)そんなことない、大丈夫、あなたはそれでいい、わたしがついてる」というメッセージとなっているというものなので、必然的にここまで自分自身にだけフォーカスし続けることはできない。

ただsiaのスタンスが大変に危ういのは言うまでもなく、これは「自分vsそれ以外のすべて」の構図を正当化・強化することに繋がりうるもので、独善とか独裁とか容易に肯定し得ます。ヒトラーが敵対勢力をどう潰すかに悩みながら自室で聞くことができなくもない歌なわけです。

そして、トラコとしては、まさにそこがたまらない。

アナ雪ブーム、英国のEU離脱、米国大統領選挙などを見るに、「自分ではない誰かとうまくやっていく」が行き詰まったというか、少なくともこれまで式の「うまくやっていく」ではうまくやれない立場・状況が、社会のいろんな局面で顕在化しているという印象を受けます。とはいえどちらかというとこれらの問題は他国のそれであるという印象がなくもないのですが、では翻って日本に限りますと、老々介護や介護殺人さえ引き起こしている少子高齢化、是正されずにずるずる来て東大卒の人材を身投げさせた違法労働、保育園が足らなくて働きたくても働けない人間がいるかと思えばねほりんぱほりんしてみたら給料安すぎてこれまた働きたくてもやってけないので働けない実態にぶち当たるという日本死ね問題など、これはこれでまた別の地獄絵図が出現、そして国の内外問わず幅広い範囲をカバーしエキドナのごとく種々の悪感情の産みの親となっている最悪のラスボスすなわち経済格差問題もあるという、箇条書きマジックも相まって「いや、真面目にこれどうすんの??」みたいな昨今であります。

世の中そんなんだとみんな余裕がないので、基本的に「他人を助ける」ということの難易度がものすごい勢いで跳ね上がってしまい、逆に「他人のダメなところをdisる」ことの難易度がめっちゃ下がってきています。ということはつまり他人からdisられる頻度も上がりやすくなっているわけで、「助けが必要だけど頼れる人はいない」的危機に個々人が陥りやすくなっている。

もはや自分以外の人間は(敵ではないにしてもその人自身の事情で手一杯で)助けになれない(し状況が転がればいつマジな敵対者になるかもしれない)。どうするーー?

っていう抑圧まみれな環境で必死でもがいている人ほど、siaの「自分自身に言い聞かせるソング」はビビるほどハマってくるのだと思うのです。

「大丈夫。

私はダメじゃない。

やれることはやっている。

走り続けて息切れする、目を閉じたくなる、ああ今また新しい困難の山が。

それでも、

"I got stamina."

わたしはタフだから」。

痺れるじゃあありませんか。

もうトラコはずっと痺れっぱなしなのです。

 

 

ポケモンの思い出。

おこんばんは。ご無沙汰しとりやす、トラコでございます。

小説を書いて犬を飼うぞなどとのたまっておきながら眠気と食欲のなさに日常のあれこれを妨げられる日々でございました。

今回は息抜きに雑談みたいなぶつくさでございます。タイトルにも書いてますが、そう個人的な思い出です。あのソフトの。

長いす。6000字超えたっす。あとポケモンわかんない人にはわかんない話ばっかりっす。

要約すると、トラコは幼少期、率直に言って、ポケモン狂いでございました。というお話です。

 

 

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この時期にしか食べられない。

否、本当はたぶん、本気出して探せば、3月3日の付近とかにも食べられるかもしれない。

が、とりあえずこの時期が一番手に入れやすい食べ物がある。

それはメレンゲの人形である。

サンタの形とかトナカイの形とかあと何だ、雪だるまの形とか?

そういった、キャラクターというほどはキャラは立っていないが人形というよりはシルエットがぬいぐるみの類に近いような、そんなかわいらしい砂糖菓子の人形が、お菓子売り場の陳列棚を一列支配して立ち並ぶ。

もうそんな時期である。

早いものだ。

素晴らしい季節である。

あのメレンゲの人形はイベントがないと、それもケーキを作るタイプのイベントがないとどこを探しても手に入らないのである。ものすごく見つけづらい。あるいは高い。

ひな祭り時期だとお内裏様お雛様のペアのがありそうな気はするが、やはりクリスマスのそれのバリエーションにはかなわない。

いい季節になったものだ。

何を隠そう、私はアレが大の好物なのである。

アレを買ってきて頭からがりがりかじり食うのが好きで好きでたまらない。つま先からでも構わない。こう、尖ったところとか先端っぽい形状の部分からコリコリやるのが好きなのである。

もともと堅い食感のものを好む性質であった。最近はっきりと自覚したのだが、どうも仕事が忙しいとかストレスが溜まってくるとガリガリ言うような堅い菓子を間食に欲しくなる。

アイスクリームのシュガーコーン、M&M’sのチョコレート(あのコーティングだけ引き剥がしてカリカリ食べるのが好き)、フエラムネ(あのポリポリ食感愛してる)、凍ったコアラのマーチ(ミルク&ココア偉大)。

中でもぶっちぎりのレアアイテムが、メレンゲの人形なのである。

サンタとトナカイが肩組んでるみたいな量販品が値段の割に量が(比較的)あって良いのだが、最近見つけた天使のかたちのも捨て難い。羽のところの形状が素晴らしいカリカリ感なのである。

ああ、天使が食いたい。こんな夜中に。どのみち店も閉まっているというのに。

えなにこれ

体調不良とか仕事ガーとかで目離してたらなんかすごいPVとかきてた。星も来てた。

ありがとうございます。今見ました。

 

感動ポルノの定義について、ちょっと書き漏らしを見つけたのでこの記事を追記といたします。

 

「感動ポルノ」と「物語の質」アゲイン

以前こう書きました。

 

しかし物語に没入させ感情移入させ、おまけに読み終えたとき、はぁ〜っとため息をつかせ、「自分、恵まれとる。もっとがんばろ」とか「世の中にゃあ大変なヒトもいる」と思わせる作品というのは存在する。

私が知ってるのは障害者ではなく闘病もので、最後にはみんな死んでまうという筋書きのフィクションだ。ちなみにネズミが超頭良くなるやつではない。あと病気そのものは実在で、今も病院には患者がいる。作者は取材して書いたということだ。

これは「感動ポルノ」だろうか?

(中略)

しかしこの本を紹介している人で「これは感動ポルノとは違う」と書いていた人がおり、作者自身も感動ポルノという用語こそ使っていないが「脱感動ポルノを目指した」と読めるような内容をあとがきだったかインタビューだったかで語っている。

これは「感動ポルノ」だろうか??

違うとしたら、それはなぜだろうか?

 

結論からいくと少なくともこの作品は感動ポルノじゃなさげです。

興味のある人は『さよならを待つふたりのために』で検索しておくんなまし。映画化されたらしいけどそっちは観てない。

そんで、何で感動ポルノじゃなさげかっていうと、病人だから感動したわけじゃない。と考えることが可能だからです。

さっきから「なさげ」とか「可能」とか言ってるのは、病人だから感動したわけじゃないけど病人の物語であるためです。

ネタバレを避けるためにちょう曖昧な表現で参りますが、この物語の一番最後のフレーズの生んだ感動、わたくしとしては作中なんども心臓をキュウキュウ言わされたわけでありますが中でもあの最後のフレーズのもたらした、あのしんとした感動。あれをぜひ「この物語のもたらした感動」の代表として選出したいと思っております。

何というかね、生活の雑音とかそういうのが一掃された感じの、静かな、でもなんかこう、みっしりした感じの存在感というか、そういうのがずっしり来るような、そういう感動。として感じたわけでございます。居るかわからない当記事読者諸兄の皆様におかれましては「なんのこっちゃ」って感じと思われますが、スルーするか作品を読むかしてくださいますようお願いいたします。

それで話を元に戻しますが、この感動は主人公が病人であること自体からくるものではないのであります。たとえ主人公が健康な人間であったとしても、ああいう状況でああいう選択をしてああいうレスポンスを受け取ったら、そしてあの一言をもらしたとしたら、たぶん私は同じように感動します。何というか、病人とかそういうんじゃなくて、人間(思考したり感じたりする存在)がああいうことになってああいうことを言った、思った、ということが胸にせまるのです。

しかし、ここがややこしいのですが、この感動を生んだ「ああいう状況」「ああいう選択」「ああいうレスポンス」の全ては、主人公が病気であったために生じたものなのであります。そもそも主人公が病人じゃなかったらこの話は成立しない。病人じゃない主人公を据えるなら筋書き自体を丸ごと書き換えないと、それこそ感動ポルノにしかならない。みたいな物語なのでございます。

全く別のブログの記事で引用されているのを孫引きしますが

障害者の側からの、こんなメッセージがありました。

Don’t be inspired by us because we happen to be different. If you must be inspired, be inspired by our vision, our ideas. Don’t be inspired by our existence. It’s just my life, and I’m living it for me, not to warm your heart.

【拙訳】

私たちで感動しないで。たまたま違っているだけなのだから。感動なさるんなら、私たちのビジョンやアイデアに感動して。私たちの存在に感動しないで。それは単なる生活の一コマ。暮らしているのも自分のため。皆さんをほっこりさせようとしてやってるんじゃありませんから。

「感動ポルノ」の日英ネット初出を追った 

という、このコメントが表現している「感動なさるんなら、私たちのビジョンやアイデアに感動して」。このビジョンやアイデアに、決断とかそういうことを加えて捉えた場合に、そういうことに感動を生むものは「感動ポルノ」ではない、と言えそうだと考えます。

前述の物語はまさにそこんとこ、主人公ら登場人物が取った行動、言った台詞がこそわたくしの心臓をして頻脈を起こしかねないような衝撃を生じたわけですので、「感動ポルノ」ではなく、人の胸を打つ上質な物語である。と結論できそうに思います。

「結論できそうに思います」?

そうです思ってるだけです。論理としては穴があるのは自覚しております。

つまり、「主人公ら登場人物が取った行動、言った台詞」「ああいう状況」「ああいう選択」「ああいうレスポンス」、これら全てが「主人公が病人であるために生じたもの」であるのであれば、それは病人という属性に感動しているだけなんじゃないのか、結局全部「感動ポルノ」で、物語は「ポルノ」であることからは逃れられないんじゃないのか、という話になってくるわけです。

このへんをはっきりさせるためには、例えば主人公らと同じ病気で、しかし主人公らとは似ても似つかぬ健康人でもようやらん類の胸糞行為が連発みたいな別のお話を引っ張り出してきて検証すればよさげなのですが、正直そんな労力を費やしたくなく、またそっちはそっちで「こいつも病気だからこんなことになった」という別ベクトルの感動ポルノみたいな何かに化けそうな予感がするので保留とさせていただきます。

 

「毎朝起きて自分の名前を覚えている」ことの偉業性

あとは個人的な逆恨みというかなんというか。例によって読んでも誰も得しません。メモとして書いておく。

朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。

これはStella Young 氏のTEDスピーチ書き起こしの抜粋だが、ここでよりにもよってこの人が「程度の低い期待」と称してしまっていることが、なんかすごい矛盾というかブラックジョークみたいな感じになってるのがすごくモヤモヤする。

言うまでもなく朝起きて自分の名前が言えることが「当たり前」にカウントできない我が身を省みての発想であり、「いいよな朝起きられてある程度正気なのが保証されてると思える人間は」というアホな羨望である。あるいは「それって期待の程度がどうとかじゃなくて何かをいちいち喜ばれること自体のウザさなんじゃないの」という話のすり替えである。

こいつは個人的な課題として解消しなくてはならない。

ある程度関係する話だが、そもそも期待の「程度」の高低差が生じるところには興味がある。要するに「当たり前」の発生源ってどうなってるんかな、みたいなことだ。

「他人に対して自分の『当たり前』を強いる人間は頭がおかしい可能性がある」という命題に同意しつつも、自分自身に対しては自分なりの『当たり前』を保持する。みたいなことを自分も含め割とみんなやっている感があるが、なんやろなそれは、という話。

こういうのを突き詰めて煮詰めて鍋底焦がしたような小説を書いてみたい。