星乃トラコは眠りたい。

小説を書いて一発当てて犬を飼って寝て暮らす。それがわたしの最終目標。

「感動ポルノ」と「物語の質」について

ひと月ぶりに記事を書くというのに、内容があまりこのブログのコンセプトに合わない(のでこれまでの文体が使えない…)のがちょっと心理的に抵抗があるが、まあしょうがない。他人の立てたテーマに乗っかったとはいえ、自分のノートを汚すのが嫌だからと言って他人のノートに書き続けるのはお行儀が悪い。


感動ポルノが物語の質を落とす理由 - はてこはときどき外に出る

タモさんネタ感動ポルノのいやらしさを解説 - はてこはときどき外に出る

上二記事を踏まえてこれ以降をお読みください。 長いよー!誰も得しないよー!!

 

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あかん

調べてみたら、体重が、3kgぐらい落ちている。

 

先々月の連休で久々に実家に帰り、イヌと戯れ、おいしいものを食べ、やりたい放題やってみたら体重が55kgを超えた。ちなみに身長は150cm前半台で下腹がやばく、ぽっちゃりを通り越して妊婦に見える。見知らぬ人に妊婦と間違われたこともある。

体重計に乗ったとき、あちゃー。と思った。痩せなきゃなー。と思った。それは覚えている。

その連休の翌日、久々に買い物でも、と仕事帰りに某所某店に行き、お高いお値段がセールでほんのちょっぴり下がっていた素敵なワンピールを発見、試着。

したら、まーハラはきついわ脇肉がはみ出るわ背中がパツパツすぎてファスナーを上げるのに一苦労(どころか二苦労も三苦労もしたかも)というありさまで、見苦しいことこの上ない。

しかしあまりにも素敵なワンピースだったので、「これから痩せて着る」という「将来への投資」めかした無駄遣いをぶっこき、自己満足にホクホクしながら帰宅したのであった。

 

そのワンピースをこの前気まぐれに着てみたらすとんと着れた。

腹肉はやはり突き出て見えるが、脇肉は消えファスナーもすすっと上がった。

姿見に映った姿は、ハラが出ているのか元々こういうふんわりシルエットなのかギリギリ判別不可能といったていで、かたちとしてはまあまあきれいだった。

わお、やった。着れるじゃん。ラッキー。と一瞬だけ思ってしまったことを告白しておく。

まこと、女の業とは深いものである。

 

一瞬喜んだものの、おかしい、とすぐに思った。ハラはともかくあの脇肉が消えてファスナーが閉まるのは絶対におかしい。あんなにキツキツだったのに。まさか知らないうちにどこか破いたんじゃあるまいか。くっそふざけんな一体いくらしたと思ってるんだ。

そう思ってワンピースをくまなく調べた。しかしどこにも異常は見つからなかった。

首を傾げながらとにかくそのワンピースを着、出勤して着替えて仕事して着替えて帰宅した夕方、ふと思いついて体重計に乗ってみた。

そうしたら体重が3kgくらい落ちていた。

 

ああ、やはり錯覚ではなかったのだな、実在していたのだ、と思った。

袖なしワンピースからハミた脇肉の話である。あと上げるのに四苦八苦したファスナーの窮屈さ。

そして恐怖で一気に血の気が引いた。何故なら私はこの日に至るまでに痩せるための運動等を一切やっていない。そして私の肉体から3kgものゼイ肉を落っことすには、過去の経験から言って「何もやっていない」などあり得ない。事実ハラは引っ込んでいない。つまりこれは余分な肉が落ちたのではない、落としてはいけない何かが落ちたという痩せ方だったということだ。

 どこから何が落ちたのか。それが問題だ。つーか怖すぎる。

イヌの記事を書いたのは良くなかったかもしれない。

写真見たさに自分で何度もアクセスしてしまう。

同じ写真が自分のスマホに入っていて好きなだけ見られるにも関わらず、である。

引き伸ばしプリントにでも出して部屋に飾っておくべきかしらん。

でもそんなことしてホームシックならぬイヌシックにかかっても困るし。

「プロフェッショナリズムと資本主義の精神」

っていうなにかのギャグみたいなフレーズが浮かんだけど元ネタがどうしても思い出せなくてマックス・ヴェーバーまで出てきたのに思い出せなくてかれこれ三日くらいずっとモヤモヤしていてさっきついに検索してしまった。

この敗北感を忘れないために記録しておく。

ついでに小説のネタを一つメモ。

『ツァウバー・ガルテン』。

 

wikipediaの受け売りだが、『ツァウバー・ガルテン』という言葉が元ネタ原典に登場する。儀式と秘儀と恩寵の息づく庭。近代資本主義の発達に際して、人は時計を携えてそこから出て行った。

ところで非プロテスタント圏である日本においては、原典が唱えるようなキリスト教の一宗派の倫理を前提とした理屈は当てはまらない。ではこの国で資本主義はどのように発達したのか?

 これもwikipediaの受け売りだが、近代資本主義の発達といったら明治維新以降ということになるらしい。富国強兵文明開化あたりは流石に習った記憶はあるが、曖昧すぎて思想的・価値観の推移的にどういうメカニズムで発達してったのかいまいち掴めない。ぶっちゃけ思想もナスのヘタもなく、欧米に追いつけ追い越せでがむしゃらこいてきたみたいな印象しかない。

 あとなんか適当に検索したらやっぱヴェーバーが指摘した勤勉とか倹約バンザイ的な倫理感に通ずる価値観が日本においても儒教ルーツでそのころ勃興してたんじゃないかみたいな論文だか抄録だかが引っかかった。けどそういうのが書きたいわけじゃないんで目だけ通して割愛。

 

 話を少し飛ばしてプロフェッショナリズム。

 ヴェーバーに従えば『ベルーフ(召命)』。この地上で実行すべく神から人に課せられた、「神の御心にかなう行為」。に、プロフェッショナリズムは通ずると言える。

 可能な限り質の高い商品を、可能な限り安く消費者に提供する。そのことで共同体の構成員皆を益するということになり、それは神の御心にかなう。ゆえに結果として金持ちになるのは全然オッケーである。というのがヴェーバーが指摘した理屈だった。

 プロフェッショナリズムとは何か。

 「可能な限り質の高い商品を、可能な限り安く消費者に提供」せんとする意志?

 単に質を追い求める姿勢だけをなんとか切り離せないものか。

 「安く」という概念が曲者だ。

 「安く」モノを人に提供するために、コストとベネフィットを意識して生産を管理する必要性が出てくる。時計はコスト管理のためのツールだ。つまり、労働時間を管理して生産性を上げるための。効率を考えるための。

 『ツァウバー・ガルテン』。魔法の庭

 庭が魔法に満ちていたころ、そこには同時に非合理への畏敬も満ちていた。

 人は時計を携えて、非合理の庭を出て行き、働き始める。

 

 非合理の庭には何がいるのか?

 人は出て行った。

 けものがいるだろうか。イヌとか。イヌがいたらいい。イヌはかわいい。

 非合理の庭にベルーフはあるか?

 当然、ある。と考えたい。召命とは手っ取り早くいうと「神から課された使命としての天職」である。なんやそれは。非合理そのものやんけ。

 問い:なぜ、それを、わたしがやらねばならないのか?

 答え:やらなければならないから。それをやるのがあなただから。神様がそう決めたから。

 というのが召命ということだ。ムチャクチャである。

 そのムチャクチャを、しかしするりと飲み込んで、非合理の庭で業に励む。

 という人間像を書いてみたい。

 召命として効率はイヌの餌にし単にひたすら質だけを追い求めまくる人間というのを書いてみたい。

 もちろんそんな人間を庭の外から見つめるものもいる。魔法の庭から出て行った、時計を持つ人間。時計で出来上がった街で召命のためでなく生存のために働いていてすりきれてきた人間。

 対比しやすいようにきょうだいにでもすんべか。庭を出た姉と庭で…そうだな、ノミでも振るう弟、とか。弟でなく姉が庭を出るのは舞台が2010年代ぐらいだから。日本において男女の区別なく若いモンはみんな正規職に就こうとし、しかし就けずに生存のために職を選ぶ余裕もなくすりきれている時代だから。

 問題は、弟が庭にいるのはなぜか? 姉がヘロヘロな時代に弟はどのように庭で口を糊しているのか?

 今のところの案としては、庭から出ると死ぬ可能性が高い=時間管理、効率追求重視の社会で「ふつうにはたらく」ことができない人間として弟を描写することでいちおう解決はする。ただし「ふつうにはたらく」ができない人間は良くも悪くも己を切り崩して売っぱらっていくしかないので状況的には己の足をかじるタコ化してる可能性もある。そうなると姉が庭の弟を気にする理由が「自分で自分のケツ持ちもできないダメなタコ人間だけど見捨てられない、だって家族だもの」パターンしかなくてつまらん。

 もっと、なにか、ないか。

 魔法の庭

 恩寵の庭。

 恩寵は街にはない。姉は庭に恩寵を見出すか見たと錯覚できねばならない。

 

眠れない。目覚まし薬を2粒に増やしたのが祟ったか。

昼寝はなしでも良くなったけど気が散りやすくなってるし何より食欲が落ちている。